おやじしんだ

おや?地震だ!
親父死んだ

1980年代の後半、パーソナルコンピュータ上の日本語ワードプロセッサでは、漢字変換処理機能だけをワードプロセッサ機能と切り離して、つまり、別のプログラムとして導入されるようになっていた。
既に別売されていたか、記憶は定かではない。
妙な漢字文字列に変換されることを利用して、日本語入力用のテキストの最初の課題にした。
例:やまのうえにはながさきました→山の上には長崎真下
問:できるだけ多く、変な変換をさせてみよう!

標題も区切る位置で意味が異なってくる、という文の1つで、確か、国語学関係の本で見つけたものだったと思う。
いつか使ってやろう、と、思っていて、結局、テキストには未だに使っていない。

妹が何度も携帯に電話してきていた。
土曜日の仕事の余波か、興奮して眠れず、明け方にうとうとと眠りについた。
気がついたのが14時過ぎ、いつも妹の口調は堅い…つまり、あたしと話すのにきんちょーするのだろうと思う…のだが、堅すぎる。
メール、見てないの?
ごめん、今起きた。
とーちゃん、天国にいっちゃったよ。

親の死に目に会えない、だろうな、とは、思っていたけれど、それ以上に、自分自身の状態の悪さに嫌気がさす。
自殺念慮に振り回されて、身動きできないでいる。
両親よりは先に死なないことが1つの親孝行だと思っている。

2008年11月20日、また入院した。
今回は終わりか、と、覚悟したが、どうやら、インフルエンザの予防接種の結果、反応が強く出すぎたということだった。ひと安心、したのも、つかの間だ。
担当医と直接話をしたのはいつだったか、余命は数ヶ月と言い渡されて、1年以上生き延びた。
トイレにたって、そのまま意識がなくなったそうだ。
かなり苦しかったのではないだろうか。
泣き言は一言も人前では言わなかった。
我慢の82年。
自分自身、身体障碍者で、かつ、あまり障碍者を好きではなかったように思う。
普通の自転車で仙台から青森まで行ったことがある、とか。
蔵王にも登山した。この時は、偶然、テレビに映っていた。子ども心に誇らしかった。
仕事で使うために、スバル360を購入、以降、なんどか買い替えた。
自動車の運転が大好き、だったはずだ。
それを無理に廃車手続きを進めて取り上げた。
取り上げなければ、無免許でも運転し続けた。
医者には、いつ、発作が起きるかわからないから、と、自動車の運転が禁止されているにも関わらず。
とてもとても好きだったのだと思う。
それを取り上げなければならなかった。
取り上げてから、外に出なくなった。
急激に老け込んだと思う。

無免許時代、大学の構内、建築中の住宅地、で、自動車の運転を習った。
教えるのがとても上手だった、と、今では思う。それも研究者の立場で。
おかげで、どんな車でも、どんな場所でも、縦列駐車や車庫入れができる。
身体障碍者の運転コンクールで、何度か優勝していたはずだ。
サイドミラーと壁の間、1cmという駐車の仕方をよくしていた。
あたしは、20cmが最小だ、かなわない。

2人のわがままな子どもたちに障碍のあるスネをかじり尽くされた82年、だな。

2008年11月20日
入退院繰り返しつつ生き延びる父に呆れつ祝ひ酒呑む
ただじっと服薬もせず一日を過ごす父親企図せざりしか
脳内の伝達物質出にくい母遺伝なりしか吾もまた同じ
入浴も片付けもせず一日を暮らす父なり吾に似てゐる
悲しみは酒も煙草も消しはせずただいたずらに層なす痛み


2 comments to this article

  1. 神経症性うつ病日記

    on 2012年9月29日 at 20:45:42 -

    友が亡くなった

    2008年秋から絶不調が続いた。無理して職場に出て行くものの、その後で、2日ほど寝込む。大好きな授業なりせば出て行けり後先知らず張り切り過ぐる時間差で筋肉…

  2. シムベ

    on 2012年10月2日 at 20:58:31 -

    お父様のご冥福をお祈りいたします。
    先生ご自身もどうかご自愛ください。