鳴門教育大学時代(今は無き、学校教育研究センター勤務)

週休2日制度が始まる前だった。一日、16時間働いた。給料から計算してみると、時給300円だった。
勤め始めて何年目だったか、あるいは、数ヶ月後だったのかもしれない。
目覚めると、周りが暗かった。目覚まし時計を見ると、6時30分。8時にセットしておいたから、まだ寝ていられる、と思ったのだが、何かがおかしかった。
周囲はだんだんと暗くなっていく。しばらくして、ようやく一日中寝ていた、ということに気付いた。無断欠勤してしまった、という罪悪感を感じたが、それより、何もしたくないという思いが強く、結局、その日はまた寝てしまった。
翌日、センターから電話があり、起きられないことを伝えると、事務補佐員のYさんが来てくれて、病院に運んでくれた。「過労」という診断だった。点滴を受け、薬をもらう。その後、センターに戻り、夜まで働いた。
今から考えると、これが「前兆」だったのかもしれない。夜、酒を飲むようになったのは何年目だったろう。完全週休2日が実施されたときからは、金曜の夜は必ず夜中まで酒を飲んでいた。
5年間、助手をしていたが、5年目は仕事が嫌でたまらなかった。逃げるように、青森に赴任した。3月末日、自宅を引き払い、さらに夕方から研究室を整理して、ホテルに戻ったのが夜中の3時過ぎ。大きな荷物を抱えた姿は、まるで「夜逃げ」だった。
もちろん、この5年間で、様々な「仕事」を覚えた。論文の書き方、文句のでない事務書類の書き方、お金のもらえる申請書の書き方、会議の運営に司会、学会や公開講座の運営、これらはとてつもなく大きな財産だ。当然、仕事を教えてくださり、さらには、実践のチャンスをくださったN先生には本当に感謝している。
犠牲も大きかったのかな…


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