青森公立大学時代(情報教育担当、前期は週に11コマ授業があったな)

雪はおもしろい。自分の雪と他人の雪がある。自分のうちの敷地に降った雪は自分の雪である。ちょっとでも他人の敷地に降った雪は他人のものである。自分の雪は自分の責任で寄せなければならない。これが常識だと思う。もちろん、そのように思っていないヤツもいる。
1994年02月14日(月)、打合せの資料を作って、徹夜をした。打合せは10時からである。早めに出かけるため、車庫前の雪かきをしていた。両隣の教員は、この日、入試の委員会があるはずだ。左隣の教員は、すんなりと出ていった。そりゃあそうだ。隣の分まで私が雪かきしているのだからな。
右隣の教員が問題だ。一度も雪かきをしている姿を見たことがない。それが証拠に、車の前に大きな「氷」の塊がある。それをいつも乗り越えて出ていく。
ところが、その日に限って、乗り越えられなかった。後輪がどうしても乗り越えられないでいた。無残なものである。ちょうど、腹で支えられた「亀」のようだった。
雪かきをしたことがない、ということは、それなりの道具を持っていない、ということになる。何やら、小さな折り畳み式のスコップをとりだして、車の下の氷の塊を砕こうとしている。当然、埒があかない。
横目で見ながら、自分の車の前の雪かきをしていた。手伝おうか、やめようか。結局、我慢できずに手伝うことにした。とりあえず、手持ちのスコップで車の下の氷の塊を砕く。ある程度すき間ができたので、エンジンをかけてもらい、渾身の力を振り絞って車の後から押した。押しに押した。久しぶりに全身の力を使って押した。
何とか、無事に氷の塊を通過、遅刻ギリギリで出発していった。問題はその後だ。
動悸がおさまらない。「深呼吸」した。水を飲んだ。10分ほど休んだ。でもおさまらないのである。約束の時間があるので、おさまらないまま出発することにした。
運転しているうちに、だんだんと手足が痺れてきた。それだけでなく、体中の筋肉が収縮を始め、ヘソに向かって縮んでいく。マニュアルシフトができなくなってきた。何かがおかしい。途中のコンビニの駐車場で5分ほど休んだ。が、治まる気配はなかった。このままじっとしていても誰も助けてくれないだろう。とにかく、大学に着けば誰かがいるはずだ。なんとか、大学に到着しなければならない…
どうしたか良く覚えていないが、とにかく、正面玄関の駐車場に到着した。全身が硬直してドアを開けることさえできなかった。なんとかドアロックを解除して、ヒタイでクラクションを押し続けた。誰か、気付いてくれ。誰か、来てくれ…
とても長い時間が経過したように思った。ドアが開けられ、なじみの事務員が声をかけてくれた。しかし、声が出ない。やっとの思いで「身体が動かない」と伝えた。
すぐに、保健婦さんが呼ばれた。彼女の声を聞くと、少し、安心できた。しばらくすると、救急車が到着。A中央病院に運ばれた。途中、救急隊員に「今まで、このような発作を起こしたことがあるか、癲癇ではないか」と何度も聞かれた。しかし、このようないわゆる「発作」は記憶にある限り、一度も経験したことが無い。
動かないのは身体だけで、頭はかなりクリアではっきりしていた。冷静に自己分析もできていた。今までの自分の知識から考えても、そう、癲癇かもしれない、と思った。
雪国で道路に雪がある時期には救急車に患者として乗るものではない。轍を越えながら運転されるので、とにかく揺れが激しい。朝食で食べたものを吐いてしまった。ますます癲癇を疑った…救急隊員も同様だったと思う。
A中央病院では、「精神科」に運ばれた。これまでの状況を考えれば、自分でもそれは当然だと思っていた。どう考えても癲癇だもの。筋肉を弛緩するための点滴を受けながら、医者の思いつくあらゆる検査が行われたようだ。脳波測定、胸部等のレントゲン撮影、心電図…
最後に「内科」に回された。この時の医師どうしの会話がふるっている。内科の医師が精神科の医師に対して「どうしてこの患者をつれてきたんだ!」なんて言っている。そんなこと、患者の頭の上でしてほしくないぞ!
ますます、医者が嫌いになった。
昼前、結局、「どこにも異常はありません」、「血液中のイオンバランスが崩れたのかもしれません」と、訳のわからないことを言われ、帰ることになった。
後から考えると、「過呼吸」ではなかったのかと思われてならない。徹夜明けに力仕事をして、「深呼吸」したのがまずかったのだろう。
翌日、全身の筋肉という筋肉が筋肉痛で大変だった。そして、ひと月ほど休暇を取った。
新学期からは、食堂に弁当を頼み夕食をきちんと食べるように心がけた。その後、1年半に渡って、風邪1つひかなかった。
しかしながら、このことも1つの「前兆」であったのかもしれない、と今では思う。


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