12月4日(日)〜12日(月)

風邪である。
4日(日)…寝て過ごす。だるい。
5日(月)…また打合せに遅刻。面目次第もない。左の咽頭がヒリヒリするし痛いくらいだった。これが始まりだったかも。
6日(火)…明け方、咽喉の痛みで起きる。鼻詰まりで呼吸も苦しかった。2度寝。後、非常勤。
7日(水)…咳が出てきた。午前中、会議。指導生の副査を決める会議なので休めない。午後も会議。夕方の会議はとても辛かった。熱が出てきたようだ。
が、しかし、この日は、福岡メルパルクホールで「志の輔らくご」なのである。職場の忘年会もあったのだけれども、中途半端に知った人たちの中で食事するのは辛かった。誰も知らない人に囲まれて大笑いするのもそれなりに辛いのだけれども、何しろ、志の輔だ。
「江戸の夢」は初めて聴いた。芝居がかった演出は、談志が演ずるよりも濃いだろう。泣いてしまった。またやられた。
8日(木)…だるい。通院の日である。診察時間を過ぎて到着、担当医と事務の方に叱られた。指導生との打合せと同様、遅刻である。ただし、もしかすると、遅刻しないようになれば、緩解した証拠になるのかもしれない。つまり、ちゃんと通院できれば、もう通院しなくてもいいような状態になっているのかもしれない。
夜、WOWOWで2004年の「志の輔らくご in パルコ」をみる。「浜野矩随」も初めて聴いた。不覚にも泣いてしまった。2日連続してやられた。
9日(金)…鬼の霍乱、ではないか、身体、弱いものな…もちろん頭も身体のうち。とは言え、久しぶりに体温を38.8度まで上げられた。ライブとWOWOWの「志の輔らくご」ダブルパワーか…違うって。食事をしたからだろう。体温が高いだけでなく、ふらつくし、ろれつを回す自信がなかったので、指導生との打合せをキャンセルし、(珍しく)授業も休講にした。咳、鼻詰まり、に、加えて、胸骨の真ん中に異物感がある。気管支炎になったかも。じっとしている分にはそれほど辛くはない。むしろ昨日の方が辛かったな。
体温は、昼過ぎに38度、夕方には37.7度まで下がる。ひたすらじっとしている。談志のCD(「談志百席」)を聴く。聴いているうちに寝てしまう、ので、また聴く、の、繰り返し。談志は凄い、声だけでも凄い。
10日(土)…大事をとって、1日寝ている。「談志百席」を聴き、「24シーズン4」のDVDを観る、の、繰り返し。幸いなことに食欲が出てきた。
11日(日)…前日の繰り返し。咳、咽喉の痛み、鼻詰まり、は変らず。胸骨の真ん中の異物感はやわらぐ。体温は36度台なので平熱に戻ったと考えていいだろうな。
12日(月)…だるい。咽喉の痛み、鼻詰まりが残る。胸骨の真ん中の異物感はほとんどない。午後から指導生との打合せを入れていたが、相変わらず遅刻。とにかくだるい。


立川談志 『談志百席』 古典落語 CD-BOX 第一期
B00063IX3W


12 comments to this article

  1. 神経症性うつ病日記

    on 2012年9月26日 at 19:52:12 -

    12月21日(水)

    某看護教員養成講座の謝恩会に出た。 この日は、職場の忘年会だったのだが、12/7同様、中途半端に知った人たちの中で食事するのは辛かった。もちろん、こちらは…

  2. 神経症性うつ病日記

    on 2012年10月1日 at 22:45:32 -

    1月15日(日)

    午後から、これまでより激しく咳が出るようになった。 胸骨の真ん中に異物感、が、ある、が、2005年12月9日ほどではない。 とりあえず、午前中は、M越百貨…

  3. なんとな〜く閲覧者

    on 2012年10月1日 at 22:47:15 -

    胸骨の真ん中に異物感がある。
    …とのところで微妙に心配になりました。最近、「たけしの本当は恐い家庭の医学」を欠かさずみているので、その影響かもしれませんが。
    いくら休んでも遅刻してもかまわないけれど、死なないでくださいよ、絶対に!あと五十年は…(自分が生きている可能性があるゾーン)

  4. kumecchi

    on 2012年10月1日 at 22:48:54 -

    授業の面白さは「当たる喜び」と「外れる驚き」の二つ。「驚かす」のと「脅す」は違う。恐怖を感じさせてはいけない。新規性にのみ着目して、不適切属性だけを増やしても仕方ない。気軽に通える医者を見つける事が重要で、町医者がちゃんとホームドクターになってくれればいいのだと思うな…これ、学部生の時に操体法をやりながら考えたこと。→操体法

  5. なんとな〜く閲覧者

    on 2012年10月2日 at 02:19:32 -

    その「脅す」ですが、教育現場で私はしばしば感じてきたような気がします。「やらなきゃ殺すぞっ」と言われた訳ではないけれど。
    全く理解できていないのに、常に急き立てられ、引っ張られるように授業についてゆかねばならない、という暗黙の恐怖というか…
    殊更、小学校のころがそうでした。(だから今でも、その当時の`後遺症’で数学がキライ)
    「当たる喜び」と「外れる驚き」の両方が体験できるのなら、誰もが能動的に学ぶ姿勢を育んでゆける気がします。
    …とはいえ、現実はまだまだほど遠い(いや、遠かった)です。
    指導者の教育って、どんなふうに行われているのか、結構興味がありますね〜

  6. kumecchi

    on 2012年10月2日 at 02:20:14 -

    学ぶ姿勢」ねぇ。教育学者みたい〜
    姿勢だけに、真直ぐだったり、捻れたりするのかな…凄い言い方だ。
    キライの後遺症は、「症」だけに投薬で軽くなるのか…
    いずれも、知識構造と考えたいね。それもいつでも再構造化できるもの、と。

  7. なんとな〜く閲覧者

    on 2012年10月2日 at 02:21:33 -

    ああー…
    ほんとだ、まるで型にはまった‘典型的’な教育学者みたいですね〜。自分が最も「嫌だ」と思っている一つでもある(これもなんか偏見?)…
    思うのですが、後遺症ってリハビリで多少は軽減されてゆく(うまくゆけば回復・改善する)のではないでしょうか。
    かつて幼い頃に交通事故に遭ったとき、ある種の後遺症が残ってしまったのですが、今では全くといってよいほど消え去っています。
    でも、リハビリ自体、現在の自分の状態をよーく把握して組み立ててゆかなくちゃいけませんね…
    なら、数Aの「命題と証明」、「数列」あたりからという具合でしょうか。いやいや、もっとさかのぼって「つるかめ算」「植木算」かなあ

  8. kumecchi

    on 2012年10月2日 at 02:22:07 -

    …同じ内容のコメントだったので、ひとつ削除したです。

  9. kumecchi

    on 2012年10月2日 at 02:23:38 -

    ってゆーかぁ〜
    教育については、誰でもがそれなりに語れてしまう。つまり、誰でもがそれらしいことを言うのであるよ。で、「姿勢」や「態度」が大事と言う裏には、「知識だけでは駄目なのだぁ」という知識に対する不当な差別が含まれている。その場合の知識は記憶するもの・こと、だね。しかし、それは知識のほんの一部。知識はダイナミックに構造化されていなければならない。コンピュータとの大きな違いだ。
    ちなみに、それなりの知識が構造化されているから大学に入学できているのだし、さらには、入学後にそれなりの学習も進められているのだと思うべき。だからこそ、これから改めて過去できなかった事を学び直す事も比較的ラクにできるはず。
    友人に、小学校の教員免許を取得するため、それまでチョー苦手だと考えていた数学を学び直したのがいる。学習しているとき、今ならとてもよくわかると言っていた。その当時は不思議だったのだけれども、今なら、その友人が再学習した時点では、それなりの知識構造ができているのだから、入り方も違うのだと思える。
    そうそう、学び直しに際しては、必ずしも教科書の順番に従う必要はない。例えば鶴亀算なんてのは二元連立方程式にしてしまえばラクチンなのだし。学び方も学んでいるのが、大人なのだし。

  10. なんとな〜く閲覧者

    on 2012年10月2日 at 02:25:29 -

    そうそう!「知識だけではダメ!」っていう感覚なんですよ〜
    先日、コメントのコメント(笑)で、‘知識とは蓄積してゆくものではなく、その都度再構築し、常に変化してゆくもの…’ということを教えていただいたわけですが─。
    やはり、私にとって知識はなんだかマイナスイメージなんですよね。…なんでだろう。固定観念というか。劣等感からきているものなのかもしれませんが。
    やたら知識が豊富な人=頭がカタイ、頭でっかち、応用が利かない、柔軟性がない(既に誤り)…などなど。
    知識の構造化─自分なりにイメージが掴めると呑み込められるのかなあ、なんて思うけれど。
    「なんで○○学部にいるんだ!?」という感じです笑。
    私の頭が硬すぎるんですねー…
    こんな感じだから、人に極度に嫌われるか、逆に好かれるか(受け入れてもらえるか)といった両極に分かれてしまうのかもしれません。
    大して賢くもないのに、やたら頑固で意地っ張りなのが困りものです…
    でも、本当にそれなりに知識が構造化しているものなんでしょうか。そもそも、自分がどのような場面で知識を活用したり、それを再構築しているのか…
    大学以前までは、「偏差値」とか「順位(試験や模試)」などといった、ある種の‘ものさし’がありました。今思い返すと、これはなかなか便利なもので、一目で自分の学力/自分の位置が把握することができました。
    …でも、学力ってそもそも、どのように測るものなんでしょうか。あの‘ものさし’で測るこが出来る学力って、学力の中の「一部分の学力」だったのかもしれない。
    今までの過程で、自分の中の知識がどのように‘活きて(生きて)’いるのか、そして、これからそれをどのように育んでゆくのか─…
    …と、典型的なものさしが無くなってしまった今だから、どことなく不確かで不安なのかもしれません。
    人からはそれなりに評価されたいと思う。けれど、何をもって評価されるのか─なんて考えると、再びかつての嫌な記憶が甦ってきてしまいます。
    「学ぶ」と一言でいえど、自分は目の前の平地をどのように耕してゆこうとしているのだろうか。どう耕せばよいのだろうか。
    自分でよいと思っていても、思い込みに過ぎず、とんでもない方向へ行ってしまうかも知れない…
    とか考えていると、なんだか悲しくなってきます。よくわかりませんが…

  11. kumecchi

    on 2012年10月2日 at 02:26:08 -

    1つだけ。
    「知識だけではダメ!」という場合の知識は知識ではない。
    知識こそが大事なのに…
    果たして、世の人々は、何を指して知識と呼んでいるのだろう、と仲間内で話したことがあったっけ。
    自らが持っている基準に対して評価活動できることが理想的だが、そのためには、そもそも基準となるべき知識が必要なんだよな〜
    まさに「心の迷いは知識の不足」状態。

  12. なんとな〜く閲覧者

    on 2012年10月2日 at 02:27:03 -

    はー…
    心の迷いは知識不足、ですか…
    知識って、思っている以上に大きい(規模?)きがしてきました。
    こんなにも、知識について考えたことなんて今までありませんでした。
    打ちながら、こんなにも知識にこだわる自分を不思議に思いつつ、見つめている感じです。