午前中、母親を迎えに行った、ところ、動けない、という。
パーキンソン病が、ひどくなってきているらしい。薬を服用して、休んでいると言う。
で、仕方なく、父親が入院している病院へ、行く前に、父親がかかり付けの医院から電話で、車を駐車場からどけてくれ、というので、まず、ホテルからその医院に直行。受付で看護師さんたちに挨拶をし、車の鍵を受け取って、ようやく入院している病院に向かう。
その医院で明らかになったのは、最後に通院したのが、8月末であったこと。診察後(混んでいるから薬だけください、というパターンだったかもしれない)、1月分の薬を出してもらっていたのだが、それを飲み終わってから…つまり9月末…この医院には行っていないとの事。
確かに、2週間は薬を服用していない事になる。
くぉらぁ〜!
ちゃんと薬を飲めぇ〜っ!
と、思いつつ、病室に向かう。
ここは、以前書いたように…書いていなかった…とても面白いところだ。
別ページにまとめようと思っていたのだった。
とにかく、廊下が長い*。手すりがない。パーキンソン病の母親の足で、ゆうに20分はかかる。途中で3回くらい休憩しなければならない。のっぺりとした廊下だ。
その先に、CCUへ続く廊下**があり、これまた、手すりがない。のっぺり+妙に柱が出っ張っている。
その柱の下、床面から20cm程のところには手すりに似たパイプが配置されている。
絶対、人のためではない。患者を運ぶための、何と言ったっけ、キャスター付きのベッド、や、その他の機器を運ぶ際、柱にぶつからないようにするために決まっている、と、思ったな。
で、次に、入り口で「儀式」***がある。
履物を履き替えろ、というのだな。
そして、手を洗え、ともいうのだな。それも、アルコール製のヒビなんとかというのを使って。
真面目な私は、手を洗ってから、履物に履き替えたら、手を洗っても同じではないか、とか、荷物を持ったら、同じではないか、とか、考えてしまう。
さらに、CCU専用のインターホンがあって、面会する患者の名前を告げるのである。
そう、このインターホンのボタンを押す前に手を洗って、いいのだろうか、と、また、悩む。
2004年には、月に2回、週末、仙台に帰って、ここに通ったものだ。
その時、明らかに業者さんと思われる人何ぞ、履物こそ履き替えるが、手を洗ったのは見た事がない。
患者の家族だけだぞ、そんなことしているの。看護師なんかは、すぐにインターホンの下にある暗証番号キーボードを何やら押して、ドアを開けてしまうのだし。
つくづく、面白いところだ、と、思う。
Midwife Jeimieに聞いてみよう。
で、問題の父親は…ノンビリ、新聞を読んでいた。
ニトロール(硝酸イソソルビド)とヘパリンが点滴されていた。1日の水分量は800ml。
…前回の入院では、1日500mlだったかな、いや、同じ800mlかな。
要するに、急性心不全と血液凝固抑制のための点滴だろう。
言葉もはっきりしていた…前回は何やら意味不明の事を口走って、驚いたのだが。
すぐに起き上がり…前回は、留置カテーテルで排出される尿の量が測定されていたから身動きできなかった…「来たのか」と、一言。
重症度の段階****も2004年は2と3だったのだが、今回は、4と5、自分でトイレに行って排尿できるし、それなりに動いていいらしい。ただし、常に、点滴が続くので、点滴液をぶら下げたスタンドごと移動しなければならないけど。
実は、この時、事実上勘当扱いになっている妹を、敢えて連れて行った。
病気に託つけて、勘当を解くまでには行かなくとも、最低でも、今の様子をお互いに見せてやりたかったのだな。
歳をとって衰えている父親、成長して一人前になった(2児の母になった)娘、の、対面である。
あたしの方は、着替えやら洗濯物やらを点検するふりをして、ニヤニヤ、2人の会話を聞いていた。
さすがに、どうにも進まなかったので、介入、「2人とも、謝りなさいっ!」
妹が家出をしてから、既に、10年以上経過している。孫も2人いる。
それを知っていながら、近づけないでいる、意地っ張りの2人だ。
…後に、もっと意地っ張りなのが母親であることを知るのだけれども。
父親は、照れながら、何やら世間話をしていた。
と、その時、担当医がやってきたので、病状や治療方針の説明に移る。
うーん、いいとこ、だったのに。
あたしの方は、事前に電話で担当医と話しをしたし、世界一信頼できる知恵袋Midwife Jeimieから話を聞いていたから、説明できるほどだったけど、一応、聞いた。
幸いな事に、以前の弁膜症は悪化していないとの事。むしろ、良くなっているらしい…といっても、根本治療ではないから、薬で持っていたのだろうけど。
問題は、この後らしい。
父親がチョーシこくと、不整脈、頻脈、最悪は心室細動に到るらしい。
…ちなみに、頻脈と心室細動は、あたしが出した言葉。単なるプチ自慢でげす。
で、まぁ、もうしばらく、我慢しなさい、ということになった。
妹は午後から仕事があるのでタイムリミットになったことにして、CCUを退出。
帰り際、妹は、自慢の息子(つまり孫)の写真を渡していた。それを見て、考えが変るといいのだけど。
少しでも、会ってみたい、とか、話をしてみたい、とか、思ってくれれば、生き甲斐にもつながる可能性がある、はず、だよ、ね…
CCUの外で、これからの作戦会議だ。
日曜にはあたしは帰る。で、その時、孫を1人…賢い方(やんちゃな方を連れて来ると、追い出される可能性が高い、一般病棟に移ってからなら、大丈夫なんだが、な)…を連れて見舞いに来い、と指示を出す。
ただ、中学生以上でないと面会できないらしいので、服装を誤魔化して、ちょっと小さな(143cmもあれば十分だろう)中学生を装って、作戦決行だ。
一般病棟に移った場合にも、続けてもらいたいものだ。
で、あたしの方は、看護師に呼ばれて、なにやら、アセスメント用紙に「情報提供」させられた。
2004年はそんなことはなかったぞ。少しは改善されたのかな。
…意見箱に投書もしたからな…
父親は、納得しない事は、絶対にやらない。
2004年に服薬で一悶着起こしている。
何しろ、毎食後、小袋に入れられた訳のわからない薬を飲め、と言われる。これが我慢できなかったのだろう。薬を持ってきた看護師に、きっぱり、言いましたよん。
「訳のわからん薬は飲めんっ!」
次に来たちびっと先輩の看護師は、「息子さんからも言ってください」と叫んでいたが、看護師の負けだな。あたしは、父親の服用している薬の殼を持ち帰り、それぞれの薬の効能を書いて*****、次ぎの日に持参した。父親はニヤニヤしながら、見ていた。
そう、今なら、薬剤師が、データペースから引っ張ってきた画像といいくらかげんな説明文とを単純にくっつけて、○○さんのお薬、なんて印刷物を渡すけど、入院中は、そんなのがない。
というのも、処方に必要な診察券を看護師が預かっているからだ。
とにかく、説明してやってくれ、納得すればいいのだから、と、言い添えた。
ついでに、今やっている、看護師の卒後教育の自慢話もしてやった。
「卒後1年目って、使いにくいでしょう」というと、即座に、
「使い物にならないんですよぉ〜、いや…」
本音が出たよん。
あんただって、1年目は使い物にならなかったくせに。
午後は、車にガソリンを入れて、銀行で滞っていた支払いを済ませ、簡単な食事をし、着替えを持って再びCCUに向かう。
夕食は、母親と一緒にとって、父親に対する愚痴を聞く。
いい加減疲れたので、ホテルに戻ったのが、20:30ころ。
マッサージを頼んだ。9000歩程度しか歩いていないのに、やたらと腰が痛い。
始めて、足つぼマッサージというのをやってもらった。
チョー痛かった。
いちおー、それなりの知識があるので、内蔵反射区で言えば、あそこだな〜、と、思っているうちに不覚にもうとうと…
足のだるさはいくぶん回復、腰はまだ痛かったので、フェルビナクのチカラをかりて、現在に至る。
煙草4本、缶ビール500ml一本。
さて、寝るか。
したがって、
ゆるゆると母の手を引き父の部屋長き廊下のまたその先の
ということは、実際に、今回は、なかったのだな。
これが、文学、というもの、らしい。
リクエストが多かったので、写真を載せておく。
*長い廊下(2004.05)
まず、看板。
そして、配置図。
いよいよ、長い廊下。
ちなみに、遠くに歩いて行くのは、母親ではない。
母親は、遥か彼方の行く先を憂い、あたしの後ろで休んでいる。
母親は、(エレベータを使って…エスカレータには基本的に乗れない、あの動く階段を見つめたまま固まってしまう)2階に上がって、この案内板まで来るまでで、既に疲れていた
**CCUへ続く廊下(2006.10)
さぁ〜て、柱に付けられたものは、人が(こけて、よろけて、ふらついて)ぶつかってケガしないように付けた、と解釈もできる。
問題は床下20cmにあるパイプ、なんだなぁ〜
いや、それよりも、母親にとっては、さらなる苦痛だったのだな。
ここまで来たのに、まだ、歩くのぉ〜
***「儀式」(2004.05…2006.10でも内容は同じだった。)
悩むでしょう?