きゃりーぱみゅぱみゅ

最初、facebookに投稿しようとしたら、長すぎる、と怒られた。むむっ

先日行われた修士課程の口述試験でのこと。「グローバル人材育成」をテーマにしていた受験生がいらっしゃいまして。利用するのは英語なんだそうです。で、わたしは、「きゃりーぱみゅぱみゅはグローバル人材に含まれますか?」と尋ねてみました。
一瞬、わたし以外の教員の方々が止まりました。がはは。欧州ツアーまでやってしまう彼女は立派なグローバル人材だと考えるのだす。
意地悪なわたしは、お答えに詰まった受験生に、「彼女は英語できないよ」とたたみかけたのでした。まぁ、圧迫面接じゃ、と言われるかもしれないけど、ね。
間を置いて受験生は「含まれると思います」と回答されました。受験生なりの「国際理解」や「グローバル人材」に対する思いがあるようで、わたしの質問でややはっきりしてきました。
もっとも、きゃりーぱみゅぱみゅの場合は、想像ですが、本人というより、周りの人々、マネージャー、プロデューサー、作曲家、作詞家、等々が一体となってきゃりーぱみゅぱみゅという人材をグローバル化しているということもあるのでしょうから、当該集団がグローバルだ、と、考える方がよいのでしょう。

かつて、鈴木孝夫「日本語と外国語」を読んで妙に納得したことを思い出す。彼は、英米人が話す「土着英語」と、インド等で使われる「民族英語」、そして、「国際補助語としての英語」を区別している。日本人は最後の「国際補助語としての英語」を目指すべきだ、という訳だな。
「日本語と外国語」には、インドの人が「アィム タルティ イャー オールド」と話すことが書かれていた。この部分は、わたしなりの「発音」で再現し、授業でよく使っている。確かに、表音文字を使う英語は、LやRの区別が厳密だし、日本人には苦手な発音だね。
「タルティ」の「タ」部分は、thの音なのだけどやや「ta」に近づけて発音するようにしている。「舌を歯で挟む」ところがポイント。
そういえば、わたしの友人が英語の授業で音読した際、教師から「訛っている」と指摘されたらしい。この場合の訛りは「東北訛り」であって、けっしてドイツ訛り(ブロンクスでもいいけど)の英語といったレベルではではない。
もし日本で「民族英語」になったすると、そもそもの日本語がヘンになる可能性が高い。「わたしは思うのです、それは...」なんて話し始めたりして...
このような変な日本語を話すということは、思考の道具として英語が使われているということになりそうだ。
実際、前任校では、アメリカで10年ほど教鞭をとっていらっしゃった同僚とテキストを作ったことがあった。同僚の作り出した日本語は、英文直訳型の日本語で、全く日本語らしくなかった。日本語らしくするのがわたしの作業の大半を占めていた。同僚は、英語で考えていたに違いない。

わたしの妻の妹さんの息子さんは、ハーフである。一見、日本語・英語のバイリンガルである。
よくよく聞くと、英語以外の教科の成績が悪いらしい。つまり、英語で考える彼にとっては、英語以外の授業では「考えにくい」のだと思う。
コミュニケーションの道具としてしか注目されていない英語だが、わたしとしては、どの言語が思考の道具となるのか、ということの方が重要だと考えるのだな。当該言語が考える道具になっていなければ、当該言語によるコミュニケーションはできない、というのが仮説。どうやって検証するよ?
帰国子女の場合も似たようなことになるようだ。元同僚がそんな話しをしていた。
国外で数年を過ごし、日本の小学校に転校して来たような場合、直ぐに日本語を覚えて喧嘩までできるようになる。親も担任もコミニュケーションは大丈夫、と、思ってしまう。が、教科学習では成績が伸びない。日本語が思考の道具になっていないからだろう。例えば、国語の時間に板書をノートに書き写している際、頻繁に黒板を見る子がいたらしい。板書された文字を「図形」のようにノートに書き写しているのだね。文字すらわからないのだから、その意味は取れないだろう。それがテストに反映されてしまう。
英語を小学校で「教科」にした場合、上っ面だけの、ナニガシカの道具にもならないような英語もどき実践されるように思う。高校生でさえ、思考の道具として英語を使うことは難しいだろうと思う。大学ではどうか?

そもそも、お前自身はどうなんだ?
仕事柄、大学院入試のための外国語の問題は作れる。ネットワークやコンピュータの維持管理のため、外国語で書かれたWebサイトの情報を利用することは日常である...研究に使えよ、はいっ
外国語で話す自信は「マイナスの方向に」はありますよ。がはは。
英語で考えようとするので、かなり疲れる。
思考の道具の1つは、C言語である。アルゴル系なので、最近のオブジェクト指向型言語にはついて行けない。
論文指導に際しても、C言語的に条件分析しているように思う。「可能性」の洗い出しには困っていない。
C言語は「英単語」は使うものの、英語で考えているとは言いがたい。変数名をつけるとき、「VO」という形にすることがほとんどではあるけど。
もっとも、根底には「アルゴリズム」があるはずで、それには数学のチカラが効いているはずだ。
そして、このような文章を作る場合には、国語のチカラによる、「起承転結」・「序破急」といった構成、川柳・短歌といった定型詩における言葉の選択、が、かなり寄与していると思う。
そして、手書きではない。直ぐに、エディタに入力してしまう。エディタとかな漢字変換機能は思考の道具になっていると考えるな。

かつて、フィーチャー・フォンで2000字のレポートを送った東京の方の大学生の話しを聞いたことがある。この大学生にとって、フィーチャー・フォンが思考の道具になったのだろうが、スマートフォンならともかく、よくやったものだ。スマートフォン、タブレット、そして、キーボードが思考の道具として活用されて行くことになるのだと思う。その場合、それらでどんな記号を操作するのか、ということが重要だろう。
英語を使うこと、は、選択肢の1つだと考える。利用者に選択の機会を与えることも必要なことだと思う。つまり、自分自身で思考の道具を意図的に選べる、ということである。
もちろん、選択の基準があれば、の、話し。形成しつつある小学生や中学生の場合、情報教育も英語教育もさらには国語教育も中途半端になってしまっては、本末転倒だと考えるのだな。

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