一応...

2010/10/1から復職しています。
差別・誤解との闘い、まだ、続きそうです。
いや、これから、本格化するのかも...
闘いに疲れる、な〜

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しばし...

2010/4/1から病休してますた。 
差別・誤解とは...闘いに敗れる、かな〜、闘いに疲れる、かな〜 


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鬱の時にはなんとかなりそうだ

じっとしていればいいのだから。
床ずれ*ができようとも腰痛や腸骨が軋んでも、じっとしていればいい。
テレビを見る、DVD**を見る、中島らもwww.amazon.co.jp心が雨漏りする日にはwww.amazon.co.jp」を読む。そのうち何とかなる。
問題なのは、躁の時だと思う。中島らもwww.amazon.co.jp心が雨漏りする日にはwww.amazon.co.jp」にも書いてあった。調子が良いので、そもそも考えない。だからまずいのだと思う。



*友人のAさんによれば、あっという間にできてしまうらしいのではあるが...
**いかんともし難い時は丸まって談志演じし左平次www.amazon.co.jpを観る(2005-08-30)


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思い起こすと...

飲み会が終わってから、研究室に寄って仕事をしてしまう。
繁華街をぶらついて、帰りがけに研究室によって仕事をしてしまう。
夜、布団に入ってから、今日の仕事の事が頭から離れない。
夜、布団に入ってから、明日の仕事の事が頭の中でグルグル回る。
そんな生活が続いていましたなぁ。

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つい、

自宅のコンピュータで残った仕事を続けてしまう。
だんだんと寝る時刻が遅くなる。
当然、起きる時刻が遅くなる。
そして、生活のリズムが崩れてくる。
そんな生活が続いていましたなぁ。



「行動の概要」を記録していると、それなりに自律的にはなる。次が、そのための用紙...著作権ってあるのかな...
PDFファイル(80,429バイト)
Excelファイル(23,552バイト)
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本など

中島らも「心が雨漏りする日にはwww.amazon.co.jp」青春出版 1)
中島らも「今夜、すべてのバーで」講談社文庫...鬱では無いが...
笠原嘉「軽症うつ病」講談社現代新書 笠原嘉「精神病www.amazon.co.jp」岩波新書
矢幡洋「立ち直るための心理療法」ちくま新書
渡辺昌祐・光信克甫「プライマリケアのためのうつ病診断Q&Awww.amazon.co.jp改訂第2版」金原出版株式会社 2)
こころの科学97「うつ病治療の最前線」日本評論社



1)鬱の時に読むことにしている
2)p.293に「笠原は『不義理をするほど早く治る』とか,商売の人なら『損をするほど早く治る』とよくいうと述べています。」と書かれている。なかなかの名言だと思う。「よし、不義理をするぞっ」、「オーッ」
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リンク

html版日記

2000年の最後の記述 2001年の最後の記述
2002年の最後の記述 2003年の最後の記述
2004年の最後の記述 2005年の最後の記述(4/28まで)



うつ病...www.google.com www.goo.ne.jp www.amazon.co.jp
鬱病......www.google.com www.goo.ne.jp www.amazon.co.jp
ハイパー薬事典

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事の始まりかも

2000年6月の上旬のこと

2000年6月9日(金)
いつものように酒をのみ、明け方までテレビを見ていた。明日は土曜日、休みだ。



2000年6月10日(土)
昼過ぎに目が覚める。が、起きる気がしない。そのまま、また、寝ることにした。午後、再び目が覚める。ずっと同じ姿勢で寝ているので、身体が痛くなっている。しかし、寝返りを打つ気になれない。そのまま、じっとしていた。トイレにも行きたくない。食欲もない。夕方、取りあえず起きだして、残っていた食パンを2枚食べる。テレビを見ながら。明け方、ようやく寝た。



2000年6月11日(日)
昼遅く目が覚める。やはり、起きる気がしない。そのまま、寝ていることにする。寝返りを打つ気になれない、トイレにも行きたくない、食欲がない、のは昨日と同じ。明日は非常勤の授業も休みだ。



2000年6月12日(月)
やはり、起きる気がしない。終日寝ている。明日は、午後から非常勤の授業だ。これだけ寝たのだから、それまでには起きられるだろう。



2000年6月13日(火)
非常勤の授業に出かけるには、15時のJRに乗らなければならない。が、それまでに起きることができなかった。とりあえず、事務にメールを送る。授業開始10分前にやっと電話を入れる。そもそも、電話に出ることも、電話をかけることも、億劫だ。人と話すことが億劫だ。できることなら、何もしたくない。明日は、昼から会議、午後から教授会がある。何とか、なるだろう。



2000年6月14日(水)
輾転反側し、気がつくと、昼過ぎであった。どうしても起きる気がしない。そのまま、寝ていた。初めて、会議をサボった。



2000年6月15日(木)
午後から授業がある。大学院の演習と、学部の講義。ギリギリに起きて、タクシーで出かける。なんとか、ごまかした。



2000年6月16日(金)
14時50分から学部の演習がある。気がつくと、電話がなっている。時計は15時を過ぎていた。電話に出る気がしなかったが、なんとか、学部の学生に電話して、休講にしてもらった。



なんか、変だ、とは思った。でも、どうすることもできなかった。 この後、見かけは、普通の生活に戻れた、ように思う。 これまで入手した知識では、どう考えても、うつ病のように思う。医者に行かなければならない。が、ようやく、医者にかかる気になったのは、この2ヶ月後。
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ある人に出したメールから...

言わば、「生きるための気力」というものが無くて、代わりに死ぬための努力ばかり考えていました。そもそも食欲がありませんので食事をしない、食事をしないので排泄もあまりない、体力が落ちているので動く気がしない、背中が痛くても寝返りさえおっくうでした。
夜も眠れないことが多く、午前中の仕事はほとんど寝ないで出ていっていました。少しは心理学をやったことがありましたので、こいつはやばい、と思い、医者に行かなければ...と思いつつ、数ヶ月経っていました。やることなすこと、万事この調子で時間がかかり、物忘れもひどくなり、書類などをなくす始末。
秩序ある無秩序を保っていた研究室は、本当に無秩序になっています。
自宅も同じで、そもそも、掃除ができない。床に何かが散らかっていても、気にならなくなっていました。
同業者の友人には相談していたのですが、そもそも、電話に出るのがおっくうで、さらに人と話すのもつらくなっていました。
夜、仕事を終えてから九大北門のバス停に向かう途中でのこと。国道3号線を渡るために歩道橋があります。調子がいいときにはそのまま階段に向かって何も考えることなく進んでゆき、登っていけるのですが、最悪の時には、一瞬、そのまま歩道橋の階段のかげから3号線に飛び出そうか、と思うこともありました。楽に死ねるかなぁ...なんて思いながら。
鳴門で倒れたり、青森で倒れたり、恐らく、その前後に何らかの兆候が有ったのかもしれません。なんとか当時の仲間たちに助けられたりして軽く済んでいたようです。話によると、「自然治癒」するらしいですし、「波」もあるようですから。
そんなこんながあっても、一応、決められた仕事(会議や授業など)はなんとかこなせました。どうやら、周りに人がいる状態だと大丈夫なようでした。今思えば、頼まれた仕事(原稿の作成)の遅さも、このような事情があってのこと、だと思います(単なる言い訳かな...)。
6月の危機的状態から、約2ヶ月かかって、医者に行くことができました。
この医者に行く時もまたおもしろいんですよね(少なくとも私はおもしろかった)。
ちょうど、系の会議と教授会が終わったときだったのですが、その日もタクシーを使って通勤し、遅刻ギリギリで会議室に入っていったはずです。万事、時間がかかってしまうので。
頑張って発言するのですが、その後のテレ笑いや、となりのS谷先生との話が、妙に大きな声になってしまっているのに気づきました。どうも、声の抑制もきかなくなってきているように思えました。
会議が終わって、病院をインターネットタウンページで探し...どうもねぇ、同じ職場の心理の先生の所には恥ずかしくて行く気が無かったもので...さらに、職場と自宅の中間にあって、どちらからも行ける病院、こんなところを選んでいるところがまた哀しいなぁ。
電話をかけて、次の日の午前中、予約しておきました。
で、帰りがけ、その病院までの道筋を「予行演習」しちゃいました。さらに、前の晩、眠れないんですよ。何を話そうか、これまた「予行演習」しちゃって。
朝の5時過ぎにようやく寝て、10時過ぎに慌てて起きだし、シャワーを浴びたのですが...
...身体にお湯がかかっているのに、次に何をしなければならないのか、わからない状態になっていました。われながら、これはおもしろい、などとすぐにモニタリングしちゃうところなんざぁ、心理学をやったことのある人間として、なんか、哀しいですね。
私の話を聞いた医者は、「うつ病なのだけれど、それにしては、はっきりと話しますね」なんて言いやがって。
かなり、一生懸命に話しているのに、ふん。
それに、理路整然と話すのは、こちとらの商売でぃ!
と密かに思いました。
一応、薬を飲んで様子を見ることにしました。
カウンセリングの話も出ましたが、やはり薬ですよ、ク・ス・リ!
飲み始めて一週間、快調でしたねぇ。
もしかすると「カウンセリング」なんて屁の役にしかたたないのかもしれない、なんて思うようになりました。
こんなこと、すぐに授業のネタとして考えてしまうのですよ。「教育学入門」で学部の1年生に話してやろう、とワクワクしています。ふふふ。
ま、こんな状態でしたので、休職、あるいは、退職はかなり本気で考えていることだったのです(2001年度末、次の年度から休職しようと思い立ったのですが、その時の事務の担当官がちゃんと手続きを教えてくれなかったので、結局できなくなってしまったのですが)。
その後、学部長、研究院長に診断書を見せて話をしました。職場の何人かは知っているはずです。
今は、処方された薬がよく効く(自分に合う薬が見つかるまで3ヶ月ほどかかりました)ようで、なかなかよい調子です。これだけ長い文章も書けますし(論文はまだ自信がないですねぇ)。
つくづく、人間の脳というのは化学物質によってどうにでもなるものだなぁ、という実感を持って毎日を送っております。
まだ、調子には波があるようです。時々、大波が来ましてね。困っています。
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青森公立大学時代(情報教育担当、前期は週に11コマ授業があったな)

雪はおもしろい。自分の雪と他人の雪がある。自分のうちの敷地に降った雪は自分の雪である。ちょっとでも他人の敷地に降った雪は他人のものである。自分の雪は自分の責任で寄せなければならない。これが常識だと思う。もちろん、そのように思っていないヤツもいる。
1994年02月14日(月)、打合せの資料を作って、徹夜をした。打合せは10時からである。早めに出かけるため、車庫前の雪かきをしていた。両隣の教員は、この日、入試の委員会があるはずだ。左隣の教員は、すんなりと出ていった。そりゃあそうだ。隣の分まで私が雪かきしているのだからな。
右隣の教員が問題だ。一度も雪かきをしている姿を見たことがない。それが証拠に、車の前に大きな「氷」の塊がある。それをいつも乗り越えて出ていく。
ところが、その日に限って、乗り越えられなかった。後輪がどうしても乗り越えられないでいた。無残なものである。ちょうど、腹で支えられた「亀」のようだった。
雪かきをしたことがない、ということは、それなりの道具を持っていない、ということになる。何やら、小さな折り畳み式のスコップをとりだして、車の下の氷の塊を砕こうとしている。当然、埒があかない。
横目で見ながら、自分の車の前の雪かきをしていた。手伝おうか、やめようか。結局、我慢できずに手伝うことにした。とりあえず、手持ちのスコップで車の下の氷の塊を砕く。ある程度すき間ができたので、エンジンをかけてもらい、渾身の力を振り絞って車の後から押した。押しに押した。久しぶりに全身の力を使って押した。
何とか、無事に氷の塊を通過、遅刻ギリギリで出発していった。問題はその後だ。
動悸がおさまらない。「深呼吸」した。水を飲んだ。10分ほど休んだ。でもおさまらないのである。約束の時間があるので、おさまらないまま出発することにした。
運転しているうちに、だんだんと手足が痺れてきた。それだけでなく、体中の筋肉が収縮を始め、ヘソに向かって縮んでいく。マニュアルシフトができなくなってきた。何かがおかしい。途中のコンビニの駐車場で5分ほど休んだ。が、治まる気配はなかった。このままじっとしていても誰も助けてくれないだろう。とにかく、大学に着けば誰かがいるはずだ。なんとか、大学に到着しなければならない...
どうしたか良く覚えていないが、とにかく、正面玄関の駐車場に到着した。全身が硬直してドアを開けることさえできなかった。なんとかドアロックを解除して、ヒタイでクラクションを押し続けた。誰か、気付いてくれ。誰か、来てくれ...
とても長い時間が経過したように思った。ドアが開けられ、なじみの事務員が声をかけてくれた。しかし、声が出ない。やっとの思いで「身体が動かない」と伝えた。
すぐに、保健婦さんが呼ばれた。彼女の声を聞くと、少し、安心できた。しばらくすると、救急車が到着。A中央病院に運ばれた。途中、救急隊員に「今まで、このような発作を起こしたことがあるか、癲癇ではないか」と何度も聞かれた。しかし、このようないわゆる「発作」は記憶にある限り、一度も経験したことが無い。
動かないのは身体だけで、頭はかなりクリアではっきりしていた。冷静に自己分析もできていた。今までの自分の知識から考えても、そう、癲癇かもしれない、と思った。
雪国で道路に雪がある時期には救急車に患者として乗るものではない。轍を越えながら運転されるので、とにかく揺れが激しい。朝食で食べたものを吐いてしまった。ますます癲癇を疑った...救急隊員も同様だったと思う。
A中央病院では、「精神科」に運ばれた。これまでの状況を考えれば、自分でもそれは当然だと思っていた。どう考えても癲癇だもの。筋肉を弛緩するための点滴を受けながら、医者の思いつくあらゆる検査が行われたようだ。脳波測定、胸部等のレントゲン撮影、心電図...
最後に「内科」に回された。この時の医師どうしの会話がふるっている。内科の医師が精神科の医師に対して「どうしてこの患者をつれてきたんだ!」なんて言っている。そんなこと、患者の頭の上でしてほしくないぞ!
ますます、医者が嫌いになった。
昼前、結局、「どこにも異常はありません」、「血液中のイオンバランスが崩れたのかもしれません」と、訳のわからないことを言われ、帰ることになった。
後から考えると、「過呼吸」ではなかったのかと思われてならない。徹夜明けに力仕事をして、「深呼吸」したのがまずかったのだろう。
翌日、全身の筋肉という筋肉が筋肉痛で大変だった。そして、ひと月ほど休暇を取った。
新学期からは、食堂に弁当を頼み夕食をきちんと食べるように心がけた。その後、1年半に渡って、風邪1つひかなかった。
しかしながら、このことも1つの「前兆」であったのかもしれない、と今では思う。
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鳴門教育大学時代(今は無き、学校教育研究センター勤務)

週休2日制度が始まる前だった。一日、16時間働いた。給料から計算してみると、時給300円だった。
勤め始めて何年目だったか、あるいは、数ヶ月後だったのかもしれない。
目覚めると、周りが暗かった。目覚まし時計を見ると、6時30分。8時にセットしておいたから、まだ寝ていられる、と思ったのだが、何かがおかしかった。
周囲はだんだんと暗くなっていく。しばらくして、ようやく一日中寝ていた、ということに気付いた。無断欠勤してしまった、という罪悪感を感じたが、それより、何もしたくないという思いが強く、結局、その日はまた寝てしまった。
翌日、センターから電話があり、起きられないことを伝えると、事務補佐員のYさんが来てくれて、病院に運んでくれた。「過労」という診断だった。点滴を受け、薬をもらう。その後、センターに戻り、夜まで働いた。
今から考えると、これが「前兆」だったのかもしれない。夜、酒を飲むようになったのは何年目だったろう。完全週休2日が実施されたときからは、金曜の夜は必ず夜中まで酒を飲んでいた。
5年間、助手をしていたが、5年目は仕事が嫌でたまらなかった。逃げるように、青森に赴任した。3月末日、自宅を引き払い、さらに夕方から研究室を整理して、ホテルに戻ったのが夜中の3時過ぎ。大きな荷物を抱えた姿は、まるで「夜逃げ」だった。
もちろん、この5年間で、様々な「仕事」を覚えた。論文の書き方、文句のでない事務書類の書き方、お金のもらえる申請書の書き方、会議の運営に司会、学会や公開講座の運営、これらはとてつもなく大きな財産だ。当然、仕事を教えてくださり、さらには、実践のチャンスをくださったN先生には本当に感謝している。
犠牲も大きかったのかな...
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